「国語力を上げるためには読書だ!」
とかなんとかよく言われます。
特に中学受験界では半ば常識かのように語られます。
確かに国語力を上げるには読書は有効な手段の「ひとつ」です。
でも「ひとつ」であって絶対でもないのですね。
そもそも『そうか!子供の国語力を上げるには読書がいいのか!』と思い立ったとしても、実行には高いハードルがあるのです。
子供が読書するようになるのは手間・労力・運が必要、という無理ゲー感
私は今でこそ国語力は一般よりはあるほうだと思うのです。
塾で勉強を教えたり、こうして文章を書いているくらいですから。
でも小学生の頃、中学生の頃は読書などほぼしていません。
読んだ本と言えば漫画ですし、ちょっと気の利いたところでも「日本の歴史」とか「武田信玄」とか結局漫画だったりします。
ようやく大学受験をする際になって、文章をまともに学んだくらいです。
とても「読書をして国語力を上げる小学生・中学生」という感じではありませんでした。
中学時代、国語の成績はほぼほぼ「3」でしたし。
小学生の頃に親から「本を読め」と言われていたような記憶はありますが、嫌いでしたからね。
そもそも本を読むこと自体があまり好きでないのに、本を読めと言っても子供は読書するようにならないのだと思うのですよね。
すごく小さい頃から、読み聞かせを大量にするとか、早めにひらがなを覚えさせ褒めながら簡単な本を読ませるだとか、幼少の頃から親がかなり努力しても、本嫌いとかいうことはありうるのです。
逆に何もしなかったけど、子供はいつの間にか本を読んでいた、なんてこともあるのです。
もう運ですよね・・・。
ですから「子供の国語力を上げるには読書」と言われても、「わかっちゃいるけど、読まないんだよ」という高いハードルがあるのですよ。
言葉を覚えるのは聞くことから
すると「読書をしないけど国語力を上げたい」という話になりますよね。
ではどうすればいいのか。
たくさん会話してください。
これなら簡単でしょ?
日本人でもアメリカ人でも、言葉を覚えるというのはまず耳から聞くことから始まるわけです。
これは赤ちゃんの頃に教わる「ママ、パパ」から始まり、「時間的非整合性」とかいうわけの分からない言葉まで、言葉を習得する場合は聞くことから始まるのが非常に多いのです。
ですから、子供が大人と会話するだけで少なくとも語彙が増えるわけです。
また、子供は表現力がないため言葉遣いが稚拙ですが、大人と会話をすることで様々な表現を覚え、だんだん洗練されていきます。
「今日、学校で校長先生の頭が禿げた。まぶしかった。」と子供なら表現するかもしれません。
「本日、小学校において学校長の頭髪が物寂しいことが分かった。目がくらむような気持がした。」とは表現できないですよね。
こういうのはある程度大人の表現なわけです。
ですが、大人と会話することで、子供たちは
『ああ、説明するときはこういう言葉遣いをしてもいいんだな』
とだんだん学んでいくわけです。
「校長先生」が「学校長」、「禿げた」が「物寂しいことが分かった」というように多彩な表現をだんだん吸収していくわけです。
「でも」のような接続詞ひとつとっても「しかし」「しかしながら」「だが」のような似たような言葉があります。
子供だけの会話だと「でも」しかほぼほぼ使われませんが、大人だといろいろ使うわけです。
このように、読書をしなくても会話するだけで子供の国語力には良い効果が期待できるわけですね。
言葉は大人から習うものなんですよ。
子供どうしの会話だと結局のところ「うぜー」とか「草ww」とか貧弱な会話になりがちですから、大人と会話することが重要なのです。
大人側も子供と会話するときは分かりやすさとのバランスをとりながら「大人らしい会話」をすることに注意が必要です。大人が「ヤベー」とか「うぜー」とか子供側の語彙を使えば、結局のところ子供の語彙は貧弱になります。
気をつけなけばいけませんよ。